野茂英雄ドクターK(三振)はメジャーリーグ挑戦のフロンティア

天才学

野茂英雄は日本代表の投手としてソウル五輪銀メダルを獲得する
1989年ドラフト史上初の8球団から1位指名を受ける
プロ入団初年度、投手4冠、ベストナイン、新人賞、沢村賞、MVPに輝き以来4年連続最多勝獲得
1995年メジャーリーグのドジャースと契約し、初年度に13勝をあげ新人賞に輝く
同年にはMLBオールスターに新人ながら出場し、アメリカンリーグの先発投手も勤める

 

8球団からドラフト1位に指名

1989年日本プロ野球ドラフト会議史上初の8球団の1位指名を受ける

すでにオリンピックにも出場し、日本代表のエースをしていたにも関わらず、ドラフト前の記者会見で野茂はプロ野球入り拒否を表明する

「自分はコントロールが甘いし、カーブも悪い

技術的に納得できるレベルではない

今のままでは、プロに入っても通用しないと思います」

とスカウトマンたちの頭を悩ませたが、周りの説得もあり近鉄バファローズの1位指名を受ける

野茂の謙虚で愚直な人間性が垣間見られる場面であった

 

野茂のメジャー挑戦は強者との真剣勝負を望んだため

野茂のメジャー挑戦は自然な流れでもあった

アマチュア時代に日本代表で各国の選手との対戦で世界のスケールを知った

近鉄時代にはノーラン・ライアンのトレーニング方式を実践する立花龍司トレーニンングコーチと出逢い米国式のトレーニング方法を学んだ

近鉄時代には立花コーチ、同僚たちとメジャーリーグのビデオをよく見ていた

また2度の日米野球での経験で実際のメジャーリーガーの実力を見せつけられ「本物と勝負する」という闘志を駆り立てられた

日本球界の体質・選手の起用法、契約方法などに疑問を感じる中でメジャー志向が募り、ついにメジャー挑戦を果たす

 

 

野茂が見せたフロンティアスピリット

アメリカではまったく無名の日本人選手が、日本での安定した立場と人気を捨て、最低年俸でメジャーに挑む

アメリカの野球ファンにはメジャーリーガーの高級取りがなくしてしまったフロンティアスピリットがそこにあるように思われた

個性的な投球フォーム、三振を積み重ねる痛快な投球、寡黙で素朴な受け答えに加え、アメリカの選手がなくしてしまった精神を野茂は見せた

野茂の人気の背景にはそんなアメリカの野球ファンの気持ちが存在した

ロサンゼルスの普通の市民にも野茂は愛されたのである

 

 

変わらないスタイルを貫いていた

野茂がとても一途だということが報道陣からのインタビューの受け答えの様子を見てもよくわかる

野茂にはアメリカに受け入れられようとか面白い答えで受けようとかとかいうことがまったくなかった

自分は野球だけをやっていればいいんだという感じ

柔軟性がないといえばその通り

でも、野茂はそういう変わらないスタイルを貫いていた

 

 

望んでいたのは記録より勝利・優勝への夢

野茂のマスコミの注目、世間の関心はアメリカでも前代未聞の扱いを受け、全米で最も有名な日本人となった

そして個人の記録は数えればきりがないほどで、たくさんのタイトルも獲得した

でもクールで感情を表に出さない野茂ではあったが、本人が一番望んだのはチームの勝利であった

選手、監督、コーチ、球団フロント、裏方も含めてチーム一丸となって1試合1試合の勝利を目指して行くことであった

そしてその先にあるシーズン優勝が野茂が本当に欲しており、その先に野茂の夢があった

 

 

 

 

[参考文献]
阿部珠樹「八月のトルネード」KKベストセラーズ
アメリカン・ドリーム研究会「野茂英雄の挑戦」ビジネス社
野茂英雄「僕のトレネード戦記」集英社

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