太田雄貴は小学校3年生からフェンシングを始める
中学校2年生から大学1年時まで各カテゴリーで全国優勝を続ける
アテネ五輪から3大会連続でオリンピック出場を果たし、北京五輪では銀メダルを獲得
日本におけるフェンシングのパイオニア的存在となる
現在は日本フェンシング協会会長、国際フェンシング連盟の副会長を勤める
本格的に取り組むのは小学3・4年生がベスト
太田の父(義昭)は小学校の教師をやっていた経験則から、子供が何かを真剣に取り組むのに「小学1・2年生の頃は夢中になるがやらされている感じ、5・6年生は自我が出てきてワガママになり熱中しきれず、だが3・4年生は何かを始めるのに目をキラキラ輝かせて取り組め、スタートするには最良なタイミングである」と心得ていた
それで太田は小学3年生からフェンシングを始めています
父は「スーパーファミコンを買ってやるからフェンシングをやらないか」とフェンシングを始めるきっかけとして誘ったのでした
フェンシングを始めるに当たっても、楽しむことを最優先し、厳しい鍛錬的なことは習い始めのころはさせなかったのでした
フェンシングの道場破り?
太田の幼少期から父はツテを使った圧倒的な行動力・交渉力で全国の実力者の門を叩き歩きました
それは父の母校である平安高校に始まって、そこの学生が同志社大学に進学すると、そのツテで同志社まで押しかけるほどでした
小学5年のときには東京女子体育大学、日本体育大学へ滋賀県から教えを乞いに出向いたほどの熱の入れようだったのです
また当時オリンピックへ2大会連続出場を果たしている日本の第一人者のいる四国高松にも、父はツテを使ってレッスンを頼みに行く行動力がありました
父のこの行動力に応えるべく太田のモチベーションは育まれていったのは想像に難くありません
父は当時40代半ばにさしかかっていたのですが、出世コースを捨てて、太田のフェンシングに献身的に協力していました
また知らない場所、初めて会う人と接するうちに培われる練習法、コミュニケーション能力は太田のその後のパフォーマンス向上に大きく影響していきました
父が目標にした3,000日特訓
父がフェンシングを始めた当初掲げた「3000日の特訓」を心の支えとして太田はトレーニングを積んでいきました
太田は泊まり込みの学校行事のときに剣を持たずに出かけ、電話で泣きながら「剣を持ってきて」と頼み、父とお寺の境内で練習をしたこともあった程でした
また中学2年生のときには「継続は力なり」という題で弁論大会でクラスの代表となりました
その締めの言葉は「僕がフェンシングを始めて、今日まで続けてきた日数は何千何百何日」という内容でした
休ませない練習については勉強のことで教職についていた両親と喧嘩をしたこともあったといいます
結果この目標は4270日目(11年半以上)の休みで幕を閉じましたが、11年半以上休みなしの練習を続けられたことは、並の人間ではできないことだと言い切れます
プライドは捨てる
アテネ五輪のシーズンが終わるとフェンシングの大きなルール改正が行われました
当初、太田はこの改正での反応は見せず、従来自分が培ってきたフェンシングのスタイルを貫こうとしました
がしかし、結果は散々なものでどんどん時代の流れから離され、太田のポジションを追い抜く選手が次々と現れたのでした
そのころ日本のナショナルチームにヘッドコーチとしてウクライナからオレグというコーチが招聘(しょうへい)されました
指導者として際立った実績がなかったオレグに対して太田は全面的に戦っており、オレグの存在を受け入れていませんでした
しかしオレグを慕う選手がこのルール改正後、着実に結果を残している現実がありました
そんなとき中学時代から獲得し続けていた国内大会優勝が大学2年のインカレであっさり破れてしまいました
あとがない太田は、真っ白な状態でオレグにプライドを捨て頭を下げ教えを乞うことにしたのでした
「ニート剣士」
太田は北京オリンピックの行われた3月に同志社大学を卒業しました
その後の所属に悩みましたが、オリンピック直前の強化期間ということもあり、オリンピックが終わるまでの期間はどこにも所属しないことに決めたのでした
世間では「ニート剣士」と話題にされたのですが、太田独自の周りへの配慮があったのでした
その頃にはすでに日本でのフェンシングの地位を向上させ世間に広め伝えたいと、20代を超えたばかりであるにも関わらず考えていたのでした
太田はその後、東京オリンピック招致に携わり、現在は日本フェンシング協会会長、国際フェンシング連盟の副会長を勤めながら精力的にフェンシングの啓蒙を行ないます
[参考文献]
太田雄貴「騎士道」小学館
太田雄貴「騎士の十戒 騎士道精神とは何か」角川書店
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