錦織圭 テニスの王子様がグランドスラムを手に入れる日

天才学

「エアーk」こと錦織圭(にしこりけい)は5歳でテニスをはじめ、13歳で米国へテニス留学します
2008年には18歳の若さで、デルレイビーチ国際テニス選手権で初優勝を果たし、日本テニス界のニューヒーロー誕生を、マスコミは『テニスの王子様』と呼び、話題となリました
2014年にはグランドスラムの一つ、USオープンで決勝進出し、世界ランク5位まで、自己最高位は4位(アジア男子としては最高位)を記録しました

世界で活躍するためには英才教育が必要

錦織は父親のハワイみやげのラケットを使って、5歳からテニスを始めました
錦織、4歳年上の姉、父と三人でいっしょにテニスの練習をおこなっていったことが、テニスを楽しむ環境を作り多くの時間を練習に打ち込んでいく原動力となります

また世界の男子テニスプレーヤートップ4を見ても、ジョコビッチ、ナダル、フェデラーは4歳から、マリーは3歳からテニスを始めています

これを見ると幼少期からの英才教育は、世界で活躍するために今や必須条件であると言えるかもしれません

 

両親が世界を意識した名前

錦織の両親は「外国で受け入れてもらいやすく、呼びやすい名前」をつけたいとの思いがあリ、大きく世界に羽ばたいていってほしいという願いから「ケイ」という名をつけました

両親が世界を意識した名前をつけ、育てて行ったことは、錦織の意識の中に知らず知らずのうちに擦りこまれ、育まれて行きました

そして錦織は小学校6年の卒業文集に既にこう記していたのです
夢は世界チャンピョンになることです

 

松岡修造は教えることができなかった

錦織はあの松岡修造の、修造チャレンジというテニス教室で小学生の時に出会っています
松岡はテニスの技術を錦織には教えなかった
いや、むしろそのレベルの高さから教えることができなかったといいます

そのかわり、世界的な選手になるための絶対的に必要な決断力、自立心、表現力といったメンタル面を厳しく指導したのでした

錦織がすごかったことは、小学生ながら、泣きながらも逃げずにやり続けたこと
何があってもやり遂げるという対応力、適応力がそのころから備わっていたこと
松岡は今でも当時の錦織の頑張りを思い出すと目頭が熱くなるといいます

11歳の頃から、これから向かっていく目標への覚悟というものが、それほどまでに錦織には感じられたのです

 

体力測定の数値はトップジュニアの中では低かった

修造チャレンジの合宿で体力測定をした際、錦織の数値は高い方ではなく、トップジュニアのメンバーの中ではむしろ低い方だったのでした

ところがコートの中での動きは速く見えるぐらいで、ボールの読みが素早く、非凡なゲーム運びを当時から披露していました

単純に運動能力だけがテニスのパフォーマンンスに直結するわけではないく、何か別な要素がそこには存在すると言えます

 

 

 

テニスの王子様からグランドスラム優勝へ

’08年デルレイビーチでATPツアー初優勝を成し遂げた時、日本のマスコミは『テニスの王子様』というニックネームを錦織につけ、報道が過熱してきました
あまりにも過熱した報道から虚像が生まれ、現実とかけ離れすぎ、プレッシャーに負けてしまうことを心配したのでした

周りの人たちの接し方が明らかに変わっていき、知らない世界を知らなければいけない事実を突きつけられる
父の清志さんも18歳で優勝できたことが錦織にとって良かったのかわからないと疑問に思っていたという

2014年にはマイケル・チャンコーチを迎い入れ、攻撃的テニスが開花します

「勝てない相手はもういない」という自信を胸に、グランドスラムであるUSオープンで準優勝を果たしました
この年の世界ランクは5位に浮上し、自己最高位は世界ランク4位まで登りつめました

ついにこの時が来たと、日本中が錦織のグランドスラム制覇を、目の前の夢として思い描いたのでした」

 

 

 

 

[参考文献]

神 仁司「錦織圭15−0フィフティーン・ラブ」実業之日本社
テニスマガジン編集部「翔べ、錦織圭! 両親が語った、『エアK』成長の軌跡」ベースボール・マガジン社
秋山英語「頂点への道 錦織圭」文藝春秋

 

 

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